推しと共に生きる

好きなことへの思いの丈をぶつける

雨の中、捨てられた猫がヤンキーであるあなたを見つめている。あなたは猫を拾う?それとも拾わない?

どうも私は「雨の日に捨てられた猫を拾いそうなヤンキー」キャラに弱いらしい。

このときの「ヤンキー」はわりと広義です。

ヤンキー正統派(?)の「不良」から「チャラ男」まで含みます。

イメージ的には「真面目・常識的じゃない人」くらいな感じ。

なかなかにざっくり基準な「ヤンキー」だとご理解いただけただろう。

 

これに当てはめて思い返せば、心当たりしかない。

最近の推しなんかもっぱらそうだ。

そう、碧棺左馬刻様。その人である。

Gangsta's Paradise

Gangsta's Paradise

まさに王道。ストライクど真ん中。

893だからヤンキーの基準なんか、なんのそのだし。

「猫を拾いそう」に関しては、ドラマトラックをご試聴いただきたい。

理鶯のご飯がマズイと分かってても食べようとしてくれたり、理鶯の知らない銃兎の秘密を勝手に話さず誤魔化そうとしたりと口は悪いが心根はかなり優しい。

猫の前を通り過ぎて一度家に帰ったとしても、気になっちゃって拾いにくるタイプですよね。

優しさ隠しきれてない。

 

意外かもしれないが、剛くんも自分の中ではこれに当てはまる。

剛くんはウェイ系っぽいので、私の中では完全に「ヤンキー」の部類ですね(雑)。

そして蛮野のことをもう1回信じようとしちゃうところに「猫を拾いそう」要素を感じてしまいます。

どんなに許せないと思ってても、心を許してしまう甘さというか…

この甘さ、間違いなく猫拾っちゃいますね。

 

古より伝わるこのシチュエーション、何よりの魅力はそのギャップですよ。

「ヤンキー」みたいな血も涙もなさそうな人が「猫を拾う」という優しさを見せる。

これにグッとくるわけです。

そもそもヤンキーって時点で、第一印象は最悪だから、なかなかそれ以上に印象悪くなることもないしね。

つまり、上がる一方ってことです。

 

こう考えると、この理論で最も重要な要素は「猫を拾う」よりも「ヤンキー」であることなのかも。

「猫を拾う」ことはヤンキーじゃなくてもする可能性が高い。

なんなら、真面目で見過ごせない人の方がやりそう。

だけど、真面目な人は性格を考えたら当然なんですよね。

言い方が悪いのですが、面白味がないというか…

やって当たり前、みたいな。

そういうことをしないと思われてる人がするっていうのが大事なんですよね。

 

自分の場合はヤンキーの定義がガバガバすぎて、大雑把に分類してしまうからなぁ…

自然とこれに当てはまる推しが増えちゃう訳ですよ。

こんなにヤンキーを推してしまうのは、自分と正反対だからなのか…?

無意識かもしれないけど、憧れみたいなのはあるかもね。

あなたの推しは雨の中、捨てられた猫を見かけたら拾いますか?